『 Buon Giorno!』 作業療法士Sより…

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zoom RSS ちょっとこわくなったこと

<<   作成日時 : 2008/09/07 20:03   >>

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少し前に、全国学力テストの結果についての報道をテレビで観ました。

なかで私の注意をひいたのが
次のなかで面積が150㎠になるものを選べという問題の正解率が低かったとのこと。

選択肢は次の4つ。
切手、郵便はがき、教科書、教室。

正解は郵便はがきなのですが、正解率が20%に至らず
誤答の教室と答えた割合が30%以上もあったとのこと。

報道では応用力がないのでは?などとコメントしていましたが
もっと根本的な感覚的な「ちから」が落ちているのでは?と感じました。

もうひとつの1sの重さのものを選べ…という問題とあわせて
日常の感覚…というものがあれば、サービス問題なんじゃないかしら?と感じてしまいました。
その昔、レッツゴー三匹の「目方でドーン!」という番組もありましたが。
(これで年代がバレバレですね)

お塩やお砂糖1袋が1s。
(今はもっと小さくて種類もいろいろ出回っていますが
昔のお塩やお砂糖といえば…あのマークのあの商品ですよね)
お米1袋が2s、5s、10s
(ちなみに我が家は5s派です)
自分の掌を目一杯広げたときの親指から小指の先までが○p。
(ちなみに私は18センチ。手もちっちゃくてよく笑われます。
指輪もマニキュアも似合わない手なんです。)
子供の頃に、手を尺取り虫みたいに動かして「長さはこれくらい」って言ったりしませんでした?
小学校ではバレーシューズを履かされますが
そのサイズが○p。

そういう、自分の身体や生活の中で実感する長さや重さの「感覚」
「見当をつける」感覚。
そういう「はたらき」が弱い、もしくは歪んでいる…?

もし、この問題の答えがわからなくても
自分の靴のサイズを考えれば「見当がつく」のに…
小学校6年生なら靴のサイズが20p以上はある子の方が多いでしょう。
20p×20p=400㎠なんだから…

自分の身体で感じる。見当をつける。

外界との探索活動において
必須の、そしてそれによってこそ培われていくはたらき

宮崎駿が
「本物の火を知らなければ火は描けない」
と言っていましたが…。

こういう根本的なはたらきが弱い
…ってことは、危機的な気がする。





文部科学省初等中等局学力調査室
http://www.nier.go.jp/08chousakekka/index.htm

「子どもの教育を考える ー特集ー 全国的な学力調査の意義と課題」
http://benesse.jp/berd/berd2010/feature/index.html







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コメント(35件)

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>次のなかで面積が150㎠になるものを選べ

12×12=144
13×13=169

は小学生にはあまり縁がないのかもしれませんね。「面積を求めよ」はよく訓練されているけどその逆となると戸惑うのでしょう。でも,

>誤答の教室と答えた割合が30%以上もあった
>1sの重さのものを選べ

などは気になりますね!「畳」や「間」「尺」「貫」は便利だったのでしょう。「日常の感覚」と結びついていて。フィート(足の大きさ)やポンド(1人1日分の製粉の消費量)もそのようなものですよね。地球の子午線の長さを元にしだしたところから抽象的な数字になってしまったのかも…。


Sparrowhawk
2008/09/07 21:24
こんばんは。以前よりとても興味深くよっしーさんのブログ拝見させてもらっています。

今回の記事ですが,今の子どもには直接的な生活の体験自体が不足しているという話を聞いたことがあるのですが,それと繋がりがありそうだと感じました。
うめじ
2008/09/08 18:45
Sparrowhawkさんへ

イギリスだったか北欧だったかは忘れてしまいましたが、式を答えさせるのだそうです。
日本では「2×3=?」ですが
彼の地では「?×?=6」が問題なんだそうです。
これって結構重要かつ象徴的な違いのように感じました。

>よく訓練されている
そうなんですよね。
私たちは語られる言葉と同時に
語られはしないけれど
明確に示されるもう1つの言葉によって
いろいろなことを訓練されている(苦笑)

自分の手で感じて
自分の眼で見て
自分の頭で考えて
新たな知見を得て考えを深める…
学んでいくことは
本来楽しいことなのに…
speranza
2008/09/08 21:53
うめじさんへ

こんばんは。
いつもお立ち寄りくださいまして、どうもありがとうございます。

>直接的な生活の体験自体が不足
そうなんですよね。
こどもたちの生活体験の質が以前とはまったく違ってきていると思います。
我が家にはエアコンはありませんが、エアコンのある家のほうが圧倒的に多いでしょう。
うちわや風鈴のある家のほうが少ないのではないかしら?
電磁調理器が普及したら、それこそ理科の実験で初めて火を見た…という子が出てくるかも。

便利で快適な生活が当たり前になってしまうと
「生活」するうえで不便で不快な体験がなくなり、「工夫して自分が変わる」ことが実生活でどんどん少なくなっていってしまう…

ちょっとこわいな…って感じました。
speranza (よっしー)
2008/09/08 22:14
 面積とは平面の大きさを表します。四角い面の大きさは縦かける横。
 掛けることを積と言います。だから平面の大きさを面積と言います。

 問題のように、「面積が150㎠」は「15cm程度掛ける10cm程度」だから「はがき」と見当がつきます。もちろん「感覚」も必要ですね。

 重さは、面積のように理屈では答えが出ませんね。1sのものを具体的に知らないと「感覚」も働きません。スピードも難しいですね。

 私は、計算力だとか応用力と言うよりも面積とは何か、重さとは何かなどの基本を教える必要があると考えています。
 また、体重50キロと距離50キロと車のスピードの50キロは何が違うのかなどは、簡単なようで難しいですから。
マサおじさん
2008/09/09 17:26
マサおじさん、コメントありがとうございます。

>面積とは何か、重さとは何か
同じテストで平行四辺形の面積を求める問いがあって、底辺、斜辺、高さの数字が記されていたけれど、この問いにも誤答が多かったそうです。
その多くは、底辺×斜辺で計算していたとか…
これでは、算数以前の読解力というか、もっとそれ以前のものができていないような気がします…。

実践知がその後の高度な認識を基礎づける(長崎浩)とするならば、子どもの教育問題は学校や教師だけでなく、親も一緒に(文字通り一緒に)考えるべき課題のように感じています。
speranza
2008/09/09 21:01
speranza さん
>語られはしないけれど
>明確に示されるもう1つの言葉によって
>いろいろなことを訓練されている

その通りですよね!

「子どもたち」は多分その「もう1つの言葉」で「訓練」されている。「学力テスト」もまたそのひとつ…。

>学んでいくことは
>本来楽しいことなのに…

たぶん今でもそうなのでしょう。
でも「学び」が「学力」とされるとき,なにかが変わってしまう。現実から離れた抽象的な数字である統計が「現実」におきかわってしまう…。

>子供の頃に、手を尺取り虫みたいに動かして「長さはこれくらい」って

もともと「身体」が長さの基準だったはずですよね!人は自分の「身体」をもとに「空間」を体験した。けれど,なぜか地球の大きさを基準としはじめた…。

Sparrowhawk
2008/09/10 20:40
「広さ」と「長さ」は別の次元にあった。別の種類の体験だったはず。それを同じ数字で表すことでさらに抽象的になってしまう。教室と誤答した子は何を「体験」したのでしょう?もしかすると150cm 四方と勘違いしたのかもしれない。もちろん,それでも違うけれど,

150×150=22500

と計算すると,「とても」広そう。「どれかを選べ」という「理不尽」な問いの下で選択肢の中では一番広いのを選ぶしかなかった…そんな子もいたかもしれませんね。
Sparrowhawk
2008/09/10 20:43
Sparrowhawkさん、コメントありがとうございます。

>人は自分の「身体」をもとに「空間」を体験した。
>地球の大きさを基準としはじめた…。
「基準」は恣意的に決められるものだと考えています。だから文化により時代により異なる「尺度」が用いられる…。
ただ、昨今の問題は「基準」が基準たりえていないことなのではないでしょうか。
自分の身体をもとにした体験と基準が実感をもって結びついていない…。
例えば、何億円と言われても、何億光年と言われても、私にはさっぱり見当がつきません(苦笑)

視知覚と身体運動の研究で「身体の3割増が拡大された身体」という報告があります。
正面を向いたまま開口部を通り抜けるには、間口の絶対値ではなくて各自の肩幅を基準に3割の余裕をみているのだそうです。
この結果は今回のこどもたちにもちゃんと通用するだろうか?…そう感じてしまいました。
speranza
2008/09/10 23:18
>恣意的に決められる

そう考えられてます…でも,

>「身体の3割増が拡大された身体」

という「基準」を,個人の意識とは多分無関係に「身体」は持っているようですよね。その「基準」には文化差,年齢差などがあるかもしれませんが少なくとも「恣意的」ではない。わたしたちの文化によってそのような「基準」の多くは無意識へと追いやられているかもしれませんが…。

>今回のこどもたち

「前回」との比較すらない,したがって「かつて」との比較のしようもない恣意的な「学力」テストの結果から,「今回」の彼らの身体感覚はわからない…さらにそのようなテストを行うという行為が,「もう1つの言葉」を発していて,わたしたちを「現実」から遠ざけている可能性すらあるかもしれない…。各設問で子どもたちは一体何を体験したのでしょう…その体験は本当にかつての子どもたちとは違うのでしょうか…。このテストは「学力」「向上」のために設計されたものであるがゆえに,そうした問いには答えてくれない。そして子どもたちにはさらに恣意的な課題が課せられる…多分「かつて」と「同様」に…。
Sparrowhawk
2008/09/11 02:38
そうですね。
確かに今回のテストもこどもたちにとっては、1つの「体験」なんですよね。

私は、今回のテストの間違え方に共通しているものには、生活の変化と密接に関係しているものがあるように感じました。
抽象思考の基礎を為す実践知は、生活という現実での体験そのものが大きく関わってきます。
というよりも、体験そのものが実践知を育てるよううに問いかけてきます。

この100年にも満たないあいだに、私たちの生活そのものが激変しています。
それは私たちの手、身体の使い方そのものに密接に関係していることがらです。
かつて、「歩き方」という人間にとって非常に基礎的で根本的な動作をすら、ごく短期間に変えてしまったことのできた(苦笑)私たちであるからこそ、生活という激変が眼に見えないところで私たちの根底をごそっと揺り動かしている…その1つとして、生態学的な身体感覚をすら左右しかねないという疑問を払拭しきれません。
speranza
2008/09/12 00:22
お年寄りの体験の一瞬一瞬が大切なように
こどもの体験の一瞬一瞬が大切だと思います。
両者は決して弱者ではないと考えていますが、主導権を握るのはその中間に位置するおとなです。

Sparrowhawkさんが指示された課題に対して敏感であるように、体験という意味で日々の授業に対して敏感な教師が(そのような教師はちゃんといるけれど決して多くはないということを経験的に知っています)増えるように…
そして体験という意味で日々のリハやケアに対して敏感な療法士や介護士や看護師が増えるように願っています。

…こんなことを願わなければいけない現実というものがおかしいと私の心の一部が叫んでいますが。
speranza
2008/09/12 00:23
speranza さん
>体験という意味で日々の授業に対して敏感な教師が(そのような教師はちゃんといるけれど決して多くはないということを経験的に知っています)増えるように…

恣意的な「学力」テストの「結果」の「数字」が独り歩きしはじめるとき,体験と離れた要求が現場に突き付けられてくる。それは大阪府に限ったことではないでしょう。それへの対応でさらに教師は体験から離れざるをえなくなる。この数字の扱い方は教室の面積として 150㎠ を選ばざるをえなかった子どもより雑としかいいようがない。本当に学ばなくてはいけないのは大人なんだと思うのです。
Sparrowhawk
2008/09/12 19:58
>そして体験という意味で日々のリハやケアに対して敏感な療法士や介護士や看護師が増えるように願っています。

その環境をどう整えるか,いや,少なくともその環境を破壊しない工夫が,周囲には求められているのでしょう。そうでないと,別の数字を療法士や介護士が追わなくてはいけなくなるように思います。政治家にその感覚がないのなら,関係者以外の個人達が,支えなくてはいけない…マス・メディア---それはその本姓上しばしば信頼できない---の助けなしに。
Sparrowhawk
2008/09/12 19:59
>本当に学ばなくてはいけないのは大人

おっしゃる通りだと思います。
ただ、私は基本的に「なにかのせい」にしても解決はしないと考えています。
働く環境を整えるのはとても重要なことだと思います。けれど環境を整えれば解決するのか…というと決してそうではない。哀しいことですが、この部分は断言してしまいます。

「時間がなくてコミュニケーションがとれない」と嘆く人は大勢います。
でも実際に時間ができたときにそう「言った」人たちがどのように「行動する」のか…

滅私奉公はおかしい。
聖職なんておかしい。
ですが、職業人としての責任の意味を問い続ける人は、本当にどれだけいるのでしょうか。

かつて私たちは1日を過ごすためだけに膨大な手間ひまをかけざるを得なかった。
格段に便利になり、手間ひまから開放された時間と余裕を今度はどのように活用しているのでしょうか。
かつての私たちよりも、今の私たちは賢くなったと言えるのでしょうか。

本当の意味で、廃用症候群(苦笑)がおこっているのは、お年寄りや障がいをもつ人ではないように感じています。

speranza
2008/09/12 21:12
>でも実際に時間ができたときに

そんなに環境は整っているのですか?

>そう「言った」人たちがどのように「行動する」のか…

療法士や介護士の現場をよく知らないので想像なのですが…その人が「コミュニケーション」とは何かを知る必要がある人で「行動」しないなら,必ずトラブルに巻き込まれるでしょう。もし形式的なものではない「コミュニケーション」を重視する環境であるなら,そのトラブルはそれほど破壊的なものにならずにすむでしょう。第1の条件がなければ,その人が「コミュニケーション」をとらないことはなんの害ももたらさないでしょうし,下手に「行動」されるとかえって大変なことになるかもしれません。第2の条件がないと,本人のみならず周りも本質から離れたところで消耗することになるようになるのでは…と思われるのですが。

いかがでしょう?
Sparrowhawk
2008/09/12 23:07
もしも、環境が第一義的な問題なら
私はこのウェブログを立ち上げずに
別の行動をしています。

それが私の答えです。
speranza
2008/09/13 21:19
第一義的でない環境が,現場の個人と個人の間に入り込むとき,現場は「なにかのせい」にしている暇はないでしょう。それゆえに私の7歳違いの長男と次女は全く違う教育を受けることになりました。大阪府でこの学力テストについて起きていることや,それにからんでこのテストについて語られることが次の環境をつくり出すとすると,義務教育の外にいる人間として敏感にならざるを得ないのです。「なにかのせいにする」ことと「なにかが入り込んでいることを自覚する」ことは別だと思うのです。
Sparrowhawk
2008/09/15 07:41
なんといいますか…
今、ケアの世界で大切なことは、マスメディアで盛んに言われているように環境を整えることだとは思いません。(ただ、環境が良くなることそのものは良いことだと思っているので触れないだけです)
そして、このことはケアの現場を知っている人、離職した人ならよくご存知のことなのでここにあえて具体的なことは書きません。

コミュニケーションのことについても当該コメントの例示として書いています。
「時間があれば…」との願いが、便利な世の中になって…の部分がかなえられたかというと決してそうではないのと同じように、今、考えていないことが違う状況になったってできるはずがない。考えていないのだから当然です。状況を変えれば解決される…わけがないという例示です。(このあたりは伝えきれなかった私の文章表現力のなさなのでしょう)
speranza
2008/09/15 22:28
150㎠にしても、もしも勘違いだったとしても、そもそも単位の読み違えに気づかず、問題を理不尽と受けとめる感覚自体がおかしいと私は思います。
(全国テストで理不尽な問題が出るはずがないのですから、自分が勘違いしていないか見直そうとしなかったというところが大きな問題だと思います。それは社会、おとなへの不信があるという意味も含めて)
そしてもっと根本的にはこういう「感覚的な」問題はこどもこそが得意だったはずです。これは違うよな。このくらいだよな…という勘。
そういうことがらは、私にとってはこどもの発達的に土台の部分が歪められている…と十分に感じられるものでした。土台が歪めばそのうえに積み重なっていくのは困難になります。

今回のテストの結果についてどんなに詳細な分析をしたって傾向しか出てこないのは自明です。
本当ならば、テストを当のこどもに還元するためには、1人1人のこどもがどんなふうに間違えたのか(間違え方には当のこども自身が投影される)をみれば、1人1人の子どもにとっての次につながるのに…と考えます。
speranza
2008/09/15 22:29
教育については、茅ヶ崎市の浜之郷小学校の取り組みが示しているように、同じ公立という枠の中でも違う可能性が既に実現されています。。浜之郷小学校に転任してきた先生が受けるのはカルチャーショックだそうです。「今まで自分がしてきたのは授業じゃなかった。授業ショーだった。」
その他にも先生を圧迫する行事の行い方の見直しなども具体的に提案されていました。
この小学校の取り組みを知ったのは息子が既に県内の他の小学校を卒業していた時ですが、息子の受けていた教育とは全く違うものであり、こんな学校もあるんだ、こんな先生もいるんだ…と非常に驚きました。

…つまり、現場の人の意識が変わればこんなにも現実は変わるのだ…ということです。
その意識に環境が無関係とは言いませんが。

誰かの意識が変わったときに、抵抗が起きるのは歴史が証明しています。
有意義な変化ほど、それに対する抵抗は大きくなります。
その抵抗もいろいろな「かたち」をとってあらわれることとは思いますが。
浜之郷小学校という現実がその乗越え方の1つを示しているのではないでしょうか。
speranza
2008/09/15 22:30
リハやケアの世界でも同じことがおこっています。
私は、先にあげた「授業ショー」という言葉はとても象徴的に受けとりました。

教育も保健福祉も人の幸せの根幹に関わる分野です。
そういう分野に関係するもの同志なのに、なぜいつも対話が対話として成り立たずどこか微妙にすれ違ってしまうのでしょうか?

Sparrowhawkさんがこの場を意思表明として使うのも自由ですが(純粋な意思表明ならご自身の場で為さるほうが効果的だとは思いますが)それ以上のことを望むからこそ繰り返しコメントされるのだと思います。
もしも、双方対話を望むならば、お互いにどこか修正すべき点があるように私は考えます。
Sparrowhawkさんは、この点についてどのようにお考えになりますか?
speranza
2008/09/15 22:45
speranza さん

コメントありがとうございます。

>そういう分野に関係するもの同志なのに、なぜいつも対話が対話として成り立たずどこか微妙にすれ違ってしまうのでしょうか?

そこをとても大切に感じているのです。「意見」とか「主張」というものはものの一面にすぎません。「関係」というものこそが,なにかを変えるのだと思っていますし,「微妙なずれ」ほど大切なものはないように思うのです。どんな人とでもそうした「関係」を大切にできるとは限りません---もちろんそうでなければずっとよいのでしょうけど。私は speranza さんを信頼しているからこそ,ここに書きつづけられる…迷惑であれば話は別ですが。

浜之郷小学校の事例はとくに「関係」性において強力な「改革」をおこなったケースと感じています。個人の意識改革というより,児童・教師の共同体づくりによる意識改革でしょう。佐藤学は現実的な実践家です。彼の試みが周囲から評価されることが「良い」「環境」のひとつと感じています。
Sparrowhawk
2008/09/16 22:18
逆にいえばこのケースのような改革は個人では不可能でしょう。現場にいる個人としての私はもうすこしゲリラ的につながりをつけてくことくらいしかできない。外していたようでしたが「想像」としてあげたのは私にはとても身近な「方法」なのです。

「考えていないことが違う状況になったってできるはずがない」としたらなにができるか?本当に必要な変化ははじめは比較的小さなトラブルとして起きることが多いように思います。「共同体」でのトラブルは同僚の一人にその責任を負わせてもなんの解決にもならないことが多い。実際自分に無関係であるはずがない。私はそのトラブルを解決するのではなく,尊重することからはじめざるを得ない---きちんと尊重できれば,必要な変化は起こるようです。わずかながらこうしたささやかな「方法」を許す「環境」が私の現場には「まだ」あります。同僚に会う,同僚と同僚をつなぐ,同僚につないでもらう,外部の方と同僚をつなぐ時間はなんとか確保できるときがある。

Sparrowhawk
2008/09/16 22:58
これは状況や立場が違うところでは全く無効な「方法」でしょう。ですからケアの現場ではどうなのか知りたいと思ったのです。もっと有効な「方法」の可能性を教えていただけるかもしれないと…。

もともと「学力テストをめぐる世論」については,佐藤学の実践のようなものを評価するような「環境」をそこなうおそれを感じていました。speranza さんのご意見がそうだというのではもちろんありません。日常生活の感覚と教科の学習内容を協慟させる体験は実際貧弱でしょう(でも本当に以前より低下しているのでしょうか?30年以上前の数学教育現代化のまっただ中にいた小学生の頃の私は日常感覚には自信はなかったように思います)。
speranza
2008/09/16 23:46
すみません!コメントに書く自分のニックネームを speranza さんのと間違ってしまいました(>_<)!もうしわけありません。2008/09/16 23:46 のものは私のコメントです(;_;)。

以下 2008/09/16 23:46 の続きです。

たぶん私は,speranza さんなら「学力テストをめぐる世論」が次の「環境」をつくりだすことや,4択のテストから引き出せないはずの結論が独り歩きしていることにもっと敏感であるはずだと勝手に思い込んでいたのでしょう。「言葉と現実」にあるようなセンスはこうしたことにつながるはずだと…。

長々とすみませんでした…。



Sparrowhawk
2008/09/17 00:00
>「関係」というものこそが,なにかを変えるのだと思っていますし,「微妙なずれ」ほど大切

完全に同意はしかねますが、おっしゃることはよくわかります。
ただ、その場合でも論点を共有化したうえで成り立つことで、論点がコメントのたびにズレてしまえば「対話」は成り立ちません。
2人の人間がいるようでいてその実、その場に人間は2人いない…相手を利用して自分の言いたいことを言うだけ…逆の立場に立てば、ああ言えばこう言われる…肩すかしを喰らうという感情しか残りません。(少なくとも私にとっては)そのために、この前のコメントはわざと書いた部分もあります。(申し訳ないですが)

このような関係性の中でのやりとりは、コメントの数は増えるし閲覧数も増えるでしょうが、私にとっては1番哀しい不毛と感じる状況です。
speranza
2008/09/17 21:12
よく視点の違いで対話が成り立たない…と言われますが、私はそうではないと感じています。視点が違うからこそ対話が成り立つ。論点のズレが生じるので対話が成り立たないのだと感じています。

もしも、Sparrowhawkさんが私を信頼しているからこそ書き続けることができる…と本当に言うのなら、私が望むことは、1度論点を明確にしたい。「何について」を明確にしてから「対話をしたい」ということです。
speranza
2008/09/17 21:13
1.正答が17.8%「教室」という誤答が30.6% という結果は本当に身体-生活感覚からくるのか?---「数の積」についての感覚からではないのか?

2.この結果が身体-生活感覚の危機とされたとき次になにが「必要」とされてしまうか(「学力テスト」がどのような「動き」を生み出すか)?---そのことは新たな「歪み」をもたらさないか?---たぶん子どもたちは測る前に予測させられるでしょう。上手にやらないとこれは「あたり−はずれ」で終わってしまう。(「学力テスト」からは別の「必要性」を導き出す「動き」があるでしょう。)

3,教師の「敏感さ」を阻害するものはなにか?

4.「職業人としての責任の意味を問い続ける人」が「少ない」としたとき,なにができるか?

5.「茅ヶ崎市の浜之郷小学校の取り組み」はそのこととどうかかわるか?



と speranza さんとの対話の中で問い続けられていたように感じていたのですが…。
Sparrowhawk
2008/09/19 06:55
Sparrowhawkさん、コメントありがとうございます。ご配慮うれしく思います。
今は出先なので戻りましたらまた書き込みます。
Speranza
2008/09/19 19:21
お待たせしました!
Sparrowhawkさんが挙げてくださった論点ですが、論点の捉え方そのものが私の感覚と微妙に違うところがあります。
そこを確認しあってから問い続けたいと思うのです。

1)面積や重さという「数字」と実際の体感する「感覚」が乖離していることが問題ではないか?

2)身体-生活感覚の危機は自覚できないくらいに私たちの身に染みてしまっていて(だからこそ危機的)それは学校教育を修正するだけでは決して解決できないだろう。にもかかわらず学校教育の場に顕著にあらわれる。そして解決できないまま職業生活に増幅したかたちであらわれる。

3)教師をふくめた対人援助職の「敏感さ」はどうしたら涵養できるか?

4)職業人としての責任の意味を問い続けられる人が増えていくにはどうしたらいいか?

5)についてはおっしゃるとおりで。
speranza
2008/09/21 10:28
3)について確認させてください。
「敏感さ」を本当に内在している人は決して阻害させられることはない。
本来は経験によって「敏感さ」を自己の内に涵養していくものなのに、現実は経験によって喪失している(喪失させられるのではなく)場合がとても多い。そういう意味を含めての「阻害」ということでよろしいでしょうか?

私のほうから…
6)対話の方向性として、原因追及という観点は実は課題解決には有効にはたらかないと考えています。望む状態Aが合意できたとしたら「Aを実現しよう!」という方向性で対話したほうが効果的…その過程において原因は相対的に解消される…というのが心身のリハの実践から私が学んだ方向性です。
speranza
2008/09/21 10:29
7)1〜6までは完全に独立していることがらではなく相互に関連しているものもありますし、対話の過程で自然発生的に広がっていく場合もあると思います。それはそのまま言葉に語らせていったほうが対話が広がりも深まりもすると思います。ただそもそもは「何について」の話だったのか…を双方ともに常に明確にしておいたほうが「対話」のためになるのかな…と感じます。
たぶん(違っていたら大変失礼ですが…お詫びして取り下げるしかありませんが…)双方ともに「言いたい」ことがあまりに多すぎるために「対話」ではなくひとりごとのようになってしまっていたのかもしれないと感じました。
speranza
2008/09/21 10:31
8)これからの進め方についてですが、私からの提案としてはまず6)についてご検討いただきたいと思います。ここが真逆ならばどこまでいってもお互いのひとりごとになってしまいますから。
もちろん、対話の過程で原因に触れずにはいられない局面も当然多々あるとは思いますが、スタンスとして…です。
もしもよろしければ、上記の1〜6について個別に記事にしていきますので、これからはそちらにコメントしていただければ…と思うのですが、いかがでしょうか?

speranza
2008/09/21 10:32
speranza さん
>上記の1〜6について個別に記事にしていきますので、これからはそちらにコメントして

了解しました。ご丁寧にありがとうございます!
Spparowhawk
2008/09/21 16:11

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