『 Buon Giorno!』 作業療法士Sより…

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zoom RSS 対人援助職としての敏感さをどうしたら涵養できるか 

<<   作成日時 : 2008/10/19 21:33   >>

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大変長らくお待たせしました。

9/7の「ちょっとこわくなったこと」の続きです。
自分にとっての切実さの強いものから書いていきます。
ご了承ください。
長いです。(苦笑)

これから私が書いていくことは大まかには次のような流れです。
1.現状の確認…@環境の道具化A魔術的思考の増加B強い自己防衛と操作的な対人関係
2.方向性の提案…@安全な非日常の場の活用A情意領域の賦活…敏感さの体験BSEE機能の賦活
3.具体的提案…@草の根勉強会A個人同士のネットワークB失敗談の開示と現状の対応説明




先の「身体の不思議」シリーズの5つの記事で書いたように
http://yoshiemon.at.webry.info/200810/article_1.html
現在までの私たちの便利な暮らしは私たちの身体を意図せずとも変えている。
そして、それは同時に身体だけでなく私たちのありようをも変えています。
(身体とこころとありようとは密接に結びついているものだから)

便利な道具がうみだされるたびに
使い
使われ
もちろんそのことによりたくさんの恩恵を受けてきました。
このウェブログだって…
パソコンやネットがなければ
出会うこともかなわなかったたくさんの方と出会えたのも恩恵のひとつです。

私たちは意図せずとも「願えばかなう」体験を積み重ねてきました。
洗濯物は洗濯機の中に入れたら「スイッチオン」
ご飯と炊くときには「スイッチオン」
暑いなぁ…と思ったらうちわで仰ぐのではなくて「スイッチオン」
蛇口をひねれば、レバーを押せばお湯が出てくる。
ボタンを押す…願いを伝えるだけで
「洗濯されたものができあがる」「ご飯が炊きあがる」「涼しくなる」「お湯が出る」
…願いを実現する過程に自らの身体が関わることなく
願ったとおりの結果に「なっている」。
魔法のボタンです。
逆に言えば
「願ったのにかなわない」体験=「ボタンの故障」=あってはならないこと。

日常生活のすみずみにまで
私たちの日々の暮らしのすみずみにまで
染みついてしまっている「ありようとしての体験」

ある同一の研修会の講師を何年も続けていますが
研修会の冒頭で
「ふだん食事介助のときに気をつけていることを全部書いてください」
という課題を出すのですが
年々書く内容が抽象化し、書ける項目数も減ってきています。
自分のなかで具体的にわからなければ具体的に気をつけようもないのに…。
つまり、本人は願っているだけで気をつけてはいないということがわかっていない…。

ご飯を炊く時にどこをどう見てどう「加減」するか
井戸からくみ上げた水をなるべくこぼさないように運ぶためには
どこをどうやったらこぼれにくいのか
感じながら歩き、歩きながら感じる。

このように、具体的に
自分の目と耳と手と身体と
「対象」との関係をむすびつけてきた「過程体験」がうすいのですから
もっと高度なもの、複雑なもの…に対してできようはずもありません。

だから
「周囲」や「常識」や「標語」という安全な(!)「場」へ退避する。
あるいは
「同調」をつくりだそうとあの手この手を使う。

「同調」への圧力は外部からだけではなくて
自らの内からもはたらくのだと思います。
自己防衛のために。

むろん、これらのことは「1対1関係」にあるわけではなくて
もっと複合する関係にあるとは思います。
ですが、便利な暮らしが相対的に奪ってきた「対象との相互作用」という体験は
同時に、とても大きな損失を私たちに密かに現在進行形で与えていると考えています。

でも
現状を否定してもはじまらない。
それは更なる否認を生み出し、悪循環を作り出すだけです。

私たちの暮らしも身体もありようもずいぶん変わったし現在進行形で続いている。
自覚されにくいそのことをまず直視し
そのうえでどうしたらいいのかを考えるしかないと思うのです。

職場や学校や家庭…私たちの1日の大半を過ごす場所は
急激な変化への抵抗力が案外少ないものです。
私たち自身が「相互作用」という小さな変化の体験が少ないので
もっと大きな変化への抵抗力が「発達」していないのも
「理の当然」なのかもしれません。
(それは私たち自身が望んできたことでもあります)
だから、たとえ良かれと思うことでも、良かれと思うことこそ
変化を伴うもの…新たな努力を要する変化…に対しては
慎重になるほうが現実的のようです。
さもないと「させられる」と受けとめられもっと大きな抵抗と否認を生み出してしまいます。
(でも変だなぁ…と思うのは、そうやって自己防衛に走る人のほうが
平気で利用者さんに『させてる』ことが多いのです。)

だから
「非日常」の「場」…
自分の「現在」をおびやかさない、後腐れの少ない
そのような「場」のほうが自分を開放できる。
(いつも自分に鎧をまとって発言するだけでなく聞くときですらそうなのです)
鎧を脱いで他の人の話を聞ける「場」
鎧を脱ごうと感じたらそのままに脱げる「場」

まずは、そのような「場」を醸成する。

鎧をまとっていたがために
感じられずにいたこと、感じることを避けていたことに
触れることのできる体験。
「日々の自分」は大丈夫という保証のうえで触れられる「場」

つまり
私がこの記事を書くうえで前提にしているのは
「敏感さ」は大多数の人にとって
本来的に内在しているものではなくて
後天的に自らが「獲得」していくもの「発達」させていくものだと考えているということです。

もしかしたら
赤ちゃんのときには備えていたものなのかもしれません。
でもそれは自然のままだから使えない。
もう1度自らのものとして自らが使えるように「なる」ためには
自らが認識して身につけ直していくことが必要なのではないかと考えているということです。

具体的な方法論としては
「草の根勉強会」の記事にまとめました。
http://yoshiemon.at.webry.info/200810/article_13.html

当施設には頼まれて1年目のOTが研修に来ることもよくあります。
これってとても良いことだと思うのです。
実際に見て触ってみないとわからないことってすごくたくさんあります。
臨床に出て具体的にわからない場面に直面した、そのときが勝負。
そこでしたり顔で理屈をこね回して悦に入るような療法士をたくさん知っています。
その方法論がとれない臨床1年目だからこそ
どうしたらこのトンネルから抜け出せるのか
違う抜け出し方もあるよということを実際に「体験」できるということが大切だと感じています。

具体的に困った時に
具体的に聞く、見る、感じる、おこなうことができる「場」
それを日常の「職場」の「外」にもっているということ。
そのためにも
それぞれの職場の特性、その人の特性をお互いが理解しあっている。
そのうえで「ちょっと教えて。ちょっと見学させて。」ということが可能なシステム。
1日職場を空けることは施設にとっても当事者にとっても不利益です。
でも次の時にはその1日の不利益よりも大きな利益を還元するから空けさせてください。
私たちはサラリーマンですから組織に使われる立場です。
でも利用者と自分自身のためにそしてまわりまわって組織の利益のためにも
組織の要素としての「個人」間の有機的な連携。
通常は作動しないけれど必要に応じて動き出す自由な連携。
そのような連携と信頼は次の連携と信頼を生み出すと思うのです。

今までの既存の「会」のように
表面的に終わるか、それとも地に足をつけたかたちで定着していくのか
キーポイントは、大人としての信頼を寄せられるに足る自分であるのか
相手に対しても、大人としての信頼を寄せることが可能なのか
…だと思います。

自己防衛、自己満足のための「お手々つないで」にはもうウンザリ。

明確な違いは
利用者利益のために働くということ。

リハやケアの世界では
「西のはての年代記」で描かれたファーザー的なものは
残念ながらまだまだとても多いのです。
そしてもっと残念なことは
ファーザー的なものを批判するマザー的なものがさらに多いのが現状なのです。

その現実にのみこまれまいと意思する人同士は
確かにその「場」で共感しあうことができるのです。
明確な言葉にしなくても
もうひとつの言葉で語られ、それを聴くことができるのです。

PLAN-DO-SEEのなかで一番大切なことは「SEE」だと考えています。

科学が過去の知識の修正の上に成り立っているということは
もうひとつの事実です。

今のリハの「常識」だってあと10年したらどう変わっているかわかりません。
統計から導き出された「一般論」が
目の前の1人の「人」にもあてはまることなのかどうかは誰にもわかりません。

私たちはあまりにも「知識」を敬い過ぎて「現実」を格下げしすぎているとしか思えません。
これでは「知識」の奴隷になってしまっています。
(誤解のないように敢えて書くと
過去のたくさんの先人の努力の集積にある知識を軽んじるつもりは毛頭ありません)
ですが、目の前に起こっていることは現に起こっているんです。
そうならないためにはまさしく「SEE」が大切です。
でも、「SEE」の大切さ、具体的な方法については
あまり語られてきていません。
卒前でも卒後の養成過程においても…
だからこそ、私たちは知識の奴隷だったと思います。

実習に来た学生には
私の失敗談をたくさん話します。
だから失敗してもいいよという意味ではなくて
失敗談と同時にだから私はこうやって気をつけているのよ。と。
人間だからどんなに気をつけていても失敗はある。
でも同じ失敗を繰り返さないように
失敗から学びましょう。
それでも失敗してしまったりもするけれど
少なくともその意思を持ち続けましょう。と。

そして必ず確認することを教えます。
自分の設定した課題で要求した能力が発揮されていたのかどうか
目で見て身体で触って「確かめる」
リハ場面だけでなくて
トイレからデイルームに戻ろうとして
(一仕事終えてほっとしたときの様子という意味です)
廊下を歩いているときの後ろ姿を見て「確かめる」

確かめない人ってすごく多いのです。
よく平気でいられるもんだ…と思いますが
確かめるわけにはいかないのだろう…とも思います。





対人援助職としての敏感さをどうしたら涵養できるのか…。

言葉は丁寧。ありようは横柄。
今の現実だと思います。

まずは現実直視から…。
そして現実を否定せずに積み上げていく方向性。

でも敏感な人ほど辛い現実。

頭ではわかっていても時々とてもやりきれなくなるときもあります。




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