『 Buon Giorno!』 作業療法士Sより…

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zoom RSS 身体の不思議 続き

<<   作成日時 : 2008/10/03 23:44   >>

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私たちの身体そのものも「有限」にみえて「有限」ではないのかもしれません。

前の記事で書いたことは…

身体の構成部分が「部分」として「完結」しているわけではない。

身体という全体の中で連続してつながっていて
なおかつ個々のはたらきをしている。

個々には別個の「名前」がついているから
「かたち」も別個として思いがち…。

でも、実際には(あるいは本当には)
まさしく目に見えて連続している。
「A」であり「B」でもある。
逆に言えば
「A」でもなく「B」でもない。
「有限」に見えて「有限」ではない…ということを書きました。

本当は、よくよく考えれば、このことは当たり前だったんです。
私たちは、1個の卵から始まったんですから。
生まれてくるまでの間に
卵の中でいろいろなことが起こっても
卵の外側になにかいろいろなものをくっつけて組み立てていたわけではないのですもの。

赤ちゃんとして母親のお腹の中にいるときも
赤ちゃんはへその緒と胎盤を通して母親と連続している。
母親は子宮と胎盤とへその緒を通して赤ちゃんと連続している。
子宮と胎盤との「境目」は喩えてみれば、磁石のような関係性です。
胎盤は赤ちゃんも母親もどちらをも守りながらどちらをも結びつけている。

赤ちゃんと母親は独立した存在だけれど
「かたち」の上でも「はたらき」の上でもつながりがある。

人間ってすごい。
いのちってすごい。
こんなにも精妙なことを当たり前のようにそれと気づかせもせずにやってのけている。

私たちは生まれてくる前から
「私」でもあり「母」でもある。
「私」ではなく「母」でもない。
そのような「存在」を身をもって「知って」いた…ことになります。

そして、それは赤ちゃんの時だけの話ではなくて…。







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コメント(9件)

内 容 ニックネーム/日時
>speranza さん

「上肢」なんてものはないんですね!
Sparrowhawk
2008/10/04 05:33
Sparrowhawkさん、コメントありがとうございます。
>「上肢」なんてものはない

「上肢」が「上肢」として「完結」して「ある」わけではありません。「かたち」のうえでも「はたらき」のうえでも。(普通に考えればそうなんです)
私たちは専門家として「上肢」を「上肢」として「とらえる」ように教わりましたが(そうでもしなければ大混乱になってしまうでしょうから)本当はそれは途上です。「上肢」を「全身」と「環境」と「背景」と「経過」との関連性において今一度「とらえなおし」「関わりかわる」こと、そしてそれらを当のその人に伝え、促し、最終的には「変わる」ことの援助が私たち専門家のしごとです。
そしてそれらはその人固有のことがらなので、教室で教えられることではないし、どうするのか…ということは言葉だけで伝えられるものではありません。
speranza
2008/10/04 18:25
もっと言うと、その時その場のその関係性において固有におこる…「有限」であれば、あるいは「有限」である程度に「応じて『ある』」のだと思うのです。だからこそ「変わる」。
この変化は対象者と私の「あいだ」で起こります。
私が今まで漠然と感じながらも言語化できなかったことは、ここにあります。
speranza
2008/10/04 18:26
>speranza さん

ありがとうございます!

>「上肢」を「全身」と「環境」と「背景」と「経過」との関連性において今一度「とらえなおし」「関わりかわる」こと

なるほど!「上肢」とはなにかだけでも個人と深くかかわるのですね!

>その時その場のその関係性において固有におこる…「有限」であれば、あるいは「有限」である程度に「応じて『ある』」のだと思うのです。

ここの部分の「有限」とはなんの有限性なのでしょうか?
Sparrowhawk
2008/10/05 07:16
Sparrowhawkさんがこの記事をちゃんと読み取ろうとしてくださっていることがとてもうれしいです。ありがとうございます。

>ここの部分の「有限」とはなんの有限性

曖昧な説明ですみません。
焦点の範囲…というような意味で書きました。
焦点化されていればいるだけその「関係性」の中に(ここでいえば)上肢も全身も環境も背景も経過も明確に「存在」する…だからこそ「変わる」
焦点化の範囲が広がるほど「存在」も曖昧になってしまう。
けれど焦点化であって焦点ではない。焦点は無の別の表現だと考えています。
speranza
2008/10/05 12:50
>speranza さん
>焦点の範囲…というような意味で書きました。

なるほどよくわかりました!

>けれど焦点化であって焦点ではない。焦点は無の別の表現だと考えています。

面白いですね!意識の中心(自我)は絶対的な無意識と同じようなことでしょうか?
Sparrowhawk
2008/10/05 21:25
>Sparrowhawkさん
>意識の中心(自我)は絶対的な無意識

私は今まで階層構造として意識無意識をとらえていたので、円環構造としての意識無意識をイメージできません。この場合はどのような関係になるのでしょうか?
speranza
2008/10/05 23:53
>speranza さん
>この場合はどのような関係になるのでしょうか?

意識・無意識の階層構造は,「意識された」ものや「意識されうる」もの,「意識された」ものから「意識によって推測される」ものとしての,「意識される」対象の階層化なのでしょう。

でも,その意識の主体そのものは決して「意識され」ない。かつての主体の行動や将来の行動は対象化されうるけれど,「今」「ここ」の主体そのものは決して「意識され」得ないという意味で「絶対的な無意識」とされるようです。

深層心理学者が「意識」を対象にしてなにか書いているものは少ないかも知れませんが,このあたりのことについては河合隼雄や C.A.マイヤーが書いていたように記憶しています。
Sparrowhawk
2008/10/06 22:32
Sparrowhawkさん、お答えありがとうございます。そういう意味だったんですね。私が取り違えていました。

>意識の中心(自我)は絶対的な無意識
たとえば、眼球の網膜には外界が映るが盲点には映らない…。
私が先のコメントで使った『「焦点」は「無」の別の表現』という言葉の意味も同じ意味で使いました。
speranza
2008/10/06 23:53

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