『 Buon Giorno!』 作業療法士Sより…

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zoom RSS 身体の不思議 続きの続き

<<   作成日時 : 2008/10/04 00:00   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 24

大人になってからの私たちにおいても

たとえば…
私たちは、箸で硬い肉を切り分けようとした時にその肉の硬さを感じます。
とろとろに柔らかい肉を箸で切り分けようとした時にその肉の柔らかさを感じます。
肉に直接「接している」のは、指先ではなくて箸先なのに。

たとえば…
私たちが道路を歩く時にはアスファルトの路面の硬さを
私たちが山道を歩く時にはでこぼこした土と石の感覚を
そしてそれらの違いを明確に感じとります。
道に直接「接している」のは、足裏ではなくて靴底なのに。

たとえば…
砂地に小枝で文字を書く時に砂地の砂が崩れていく感じを感じとることができます。
砂に直接「接している」のは、指先ではなくて小枝の先なのに。
もしもある文字を書いている最中に小枝が風で吹き飛ばされたら
その文字を砂地に刻んだ線の細さや深さを保ったまま書き続けていくのは困難でしょう。
小枝はその時に指先に連続するものとしてなくてはならないものだったからこそなのではないでしょうか。

私たちの身体は、身体を超えて広がっていく。

靴や箸や小枝といった道具を使うことによって
身体の外にあるものをまざまざと感じ、操作することもできる。

道具は身体の延長…というのは、まさしく文字通りにそうなのだと思います。
(そしてそのことによる恩恵も、新たに生み出された問題も)

ここまでは、現実的なおはなしとして。













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なるほど(納得、参考になった、ヘー)

コメント(24件)

内 容 ニックネーム/日時
>speranza さん
>道具は身体の延長…というのは、まさしく文字通りにそうなのだと思います。

車もテレビもコンピュータも…なんですね!

>(そしてそのことによる恩恵も、新たに生み出された問題も)

身体がうまく使えないことがあるように道具や文明についてもそうなのでしょうね…。ある意味わたしたちの身体はよい意味でも悪い意味でも驚異的に延長していったのかもしれない…ということですね?
Sparrowhawk
2008/10/05 07:40
>Sparrowhawkさん
>車もテレビもコンピュータも…
はい。

>よい意味でも悪い意味でも驚異的に延長
私たちの遥か昔の祖先が火や棒を手にした時から、既に現代のありかたは規定されていたと思います。
身体でないようにみえて身体であるもの…もうこれはたくさんありすぎて、身に染みていすぎていて私たちの身体とも暮らしとも切っても切り離せない。(文字通りに…苦笑)

恩恵を当たり前のようにうけいれることで(恩恵を創り出すこととその同一化は循環的に作用してしまいます)だからこそそのことから直接引き起こされる問題に対しても、そして二次的に引き起こされてしまう問題に対しても把握できない…あるいは先延ばしにされてしまう…。
speranza
2008/10/05 12:59
私たちはもう過去の生活様式に戻れないだけではなくて、過去の「身体」にも戻れない。
「身体」は「自律的」でもあります。
道具を身体化したことで環境も身体も道具化の道を進んでいる。最終的には自らが生み出したはずの道具に自らの身体がのっとられてしまう。身体をもってはいるが使わない…あるいは使えない。私たちがする…あるいはできることは「思う」ことだけになってしまう。
それは「人間」でしょうか?「万能」でしょうか?私たちはそれを本当に望むのでしょうか?

speranza
2008/10/05 13:00
>speranza さん
>最終的には自らが生み出したはずの道具に自らの身体がのっとられてしまう。身体をもってはいるが使わない…あるいは使えない。私たちがする…あるいはできることは「思う」ことだけになってしまう。

もし戻れないなら,「延長した身体」「全体」をとらえなおすことが新たに求められているかもしれませんね。
Sparrowhawk
2008/10/05 21:30
>Sparrowhawkさん
>新たに求められている

はい。それがもうひとつの道だと思います…。
音速や光速をまざまざと感じられるような新たな感覚をも生み出すことができるのでしょうか。
その時に私たちの「対」人関係はどのようなものになるのでしょうか。…見当もつきませんが。

>もし戻れないなら
「自制的」になることは今すぐにできることだと思います。そうしたとしても、新たにとらえなおすことと弊害への配慮は不可欠だと思います。

speranza
2008/10/05 23:57
>speranza さん
>音速や光速をまざまざと感じられるような新たな感覚

宗教というものはかつてそういう感覚を実現していたようです。しかし簡単にそれらに飛びつくとなにがおこるかをわたしたちは知っている…。

Sparrowhawk
2008/10/06 22:18
>Sparrowhawkさん
そうですね。

ただ、どうも私の例示が適切ではなかったようです。
たとえば…自転車に乗って走る時。ゆっくり走る時の「遅さ」やペダルをこぎまくった時の「速さ」は「自転車で走る」体験そのものに伴う感覚です。車で高速を走っているとどのぐらいの速さなのかわからなくなってメーターをみます。この時の時速100qという速さを「認識」するのではなくて「感じる」ことができるようになるのか。つまり…速さを示した「数字」を「認識」するのではなくて「感じる」ことができるようになるのか…という意味で書きました。
speranza
2008/10/07 00:26
>speranza さん
>速さを示した「数字」を「認識」するのではなくて「感じる」ことができるようになるのか…

「体感」というやつですね?自転車でも「「数字」の「認識」」は怪しいでしょうけれど,歩行→自転車の「体感」の連続性に比べれば自転車→自動車は不連続ですよね。

すこしそれるかも知れませんが,「体感」というと,常に受けている日常の「刺激」には人間は無自覚で,わたしたちが「乗っている」地球の自転速度となると…子午線が4万kmで単純に地球が球として赤道も同じ長さとすると赤道上で,

4万km÷24時間
=1666.666…km/時

北緯30度としておよそ0.87倍で,約1443km/時で日本はもうすこし緯度が高いからこれより少し遅い…。

さらには地球の公転速度,太陽の銀河系の中心に対する速度となるととてつもない…。
Sparrowhawk
2008/10/07 21:37

それらを「感じる」ことができないのは,慣性力がより重力が大きいことや,身近なものが一緒に動いていることとあわせて,いつも同じ「刺激」(力)を受けつづけているこのがあるのでしょう。

「感じる」には日常の「刺激」から「自由」であること「解放されること」が必要なのかもしれません…。
Sparrowhawk
2008/10/07 21:37
>Sparrowhawkさん

思わず「おぉ〜!」です。
>常に受けている日常の「刺激」には人間は無自覚
おっしゃるとおりだと思います。
朝目覚めた時に「あぁ今日もいつもとおんなじ重力だな」は、あり得ないですものね。

>「感じる」には日常の「刺激」から「自由」であること「解放されること」が必要
おっしゃるとおりだと思います。
(このことについては別段でも話がふくらんでいきそうに感じます)
ついこの間も、温泉のお湯に浮かべた足をお湯の表面から上に持ち上げたりまたお湯の中に戻したりして、足の重さの違い…浮力の恩恵を楽しんでいました。
speranza
2008/10/07 23:15
でも私はやっぱり「そんなの感じられなくたっていいんです。みんなが自制すればいいだけなんです。」(宮崎駿のような言い回し)と言いたい…。
自らの周囲は(周囲なんて言葉も死語になるでしょうが)何q先でも感じ分け、自らの身体は「なんでもボックス」の中にあり、操作するボタンすらなく「願えばかなう」…手のわざを失い、手の知恵を失い…まるで巨大赤ん坊です。すごくいびつ。
このいびつさをいびつなままで、なおかつスマートなありように転換することが可能ならば「超人間」として生き伸びることも可能かもしれません…。
それがイヤなら7世代後の人たちも「人間」として生き延びられるように自制と配慮の道を探りませんか…と言いたい。です。
speranza
2008/10/07 23:17
>speranza さん
>…手のわざを失い、手の知恵を失い…まるで巨大赤ん坊です。

的確な表現ですね!「巨大な赤ん坊」は「宗教」のない人々や「宗教」を勘違いした人々(この人々がなにをするかをわたしたちはよく知っている)の陥る罠なのでしょう。人間は「神」や「超人間」になってはいけない。にもかかわらず,「神」に近い部分をもつ。「神」は身近に「感じる」ことはできるけれど決して「神」になれるわけではないし,なってはいけない。

でも,自身の地球の重心に対する運動や,太陽に対する運動を「感じる」としても,「万能」になるわけではない。逆に「万能」でないことを知ることになるのではないでしょうか?地球の重力から「解放」された人々である宇宙飛行士はなぜか共通の体験を語っているようです。そしてこの星に対する「配慮」を訴えている。
Sparrowhawk
2008/10/08 02:01
そして自分にはたらく目に見えない「力」を「感じる」ことは,実際には「手のわざ」をみがくことから始まるのかもしれない…。
Sparrowhawk
2008/10/08 02:09
>Sparrowhawkさん

>共通の体験を語っている
そうですね。同時に帰還後の生活が困難になってしまった人もいるようです。それだけ危険なことでもあるのだと思います。
「身のたけ」を超える体験は、通常では起こらないようになっているのも身体の防衛機構なのかもしれません。

>「手のわざ」をみがくことから始まる
「手のわざ」をみがいた結果として目に見えない「力」を「感じる」はたらきも高まる…と感じています。
そしてこのはたらきには「肌」が関わっているのでは…と感じています。
speranza
2008/10/08 22:07
>speranza さん

>危険なこと

宇宙空間は相当人間にダメージを与えるようです。あまり大々的には知られていないようですが,聞いてしまうとよく宇宙に行こうとする人がいるものだとすら思えます。今のところこの星によってわたしたちは守られている(それはしかしこの星の歴史からすると一時的なもの…)。

>身体の防衛機構

これは「神の与えた罰」でしょうか?

>「手のわざ」をみがいた結果として


そして,目にみえない「力」を知ろうとするだけでも「手のわざ」をみがくだけでもだめなのでしょう…話がとんでしまうようですが『西のはての年代記』でわたしがもっとも強く感じたもののひとつはそのこと…「力」からの「自由」が個人にとって一体なにを意味するのか?どんなにきわどく,危険で,命がけのものか…にもかかわらず必要なものか…だったようです…。

>皮膚

もっともっと注目されるべき大切なもののひとつのようですよね!

#なぜかわたしは「脳科学」は好きになれない…皮膚のほうがずっとぴったりきます…。
Sparrowhawk
2008/10/09 00:05
>Sparrowhawkさん

>「神の与えた罰」でしょうか?
敢えて言うなら「神に与えられた恩恵」だと思います。Sparrowhawkさんは、どのようにお考えですか?

>「力」からの「自由」
>どんなにきわどく
同感です。
川の場面は、とても怖かったです。顔の描写も…。
>『西のはての年代記』
私は「蟻の話」が強く印象に残っているもののひとつです。

>「脳科学」は好きになれない
>皮膚のほうがずっとぴったりきます…。
それはどんなところなのでしょうか?
speranza
2008/10/09 20:34
>speranza さん
>帰還後の生活が困難になってしまった人



>「身のたけ」を超える体験

にたいして「罰」を受けたのでしょうか?
という意味でうかがったのですが…。
Sparrowhawk
2008/10/10 19:36
>Sparrowhawkさん

そういう意味だったんですか(苦笑)
>帰還後の生活が困難になってしまった人は「身のたけ」を超える体験にたいして「罰」を受けたのでしょうか?

神様は「罰」を与えるでしょうか?
(人間の側が「罰」を受けた…と感じることはあるかもしれません)
speranza
2008/10/11 19:40
>speranza さん
>神様は「罰」を与えるでしょうか?

多くの「神(々)」は人間に罰を与えるようです。とくに,人間の「分」を越えた行為にたいしては…。でも重「力」から「自由」になることは人間の「分」を越えたことになるかどうか…。もちろん「きわどく,危険」な行為であるのでしょうが。

>「蟻の話」

「金の指輪」をもってきて「ケーキをみんな食べて」しまう「忘れられた」蟻(たち)のことですね?

>>「脳科学」は好きになれない

「脳」で哲学的なものを含め全てを「説明」しようとするところです。もちろん「ある意味」「説明」はできる。でも「脳」とはなにか?「脳」という器官が存在すると思っているのは「脳」でしょうか?となると,そもそも「脳」は「どこ」に存在するのでしょう?これらの問に「脳科学」は答えられるようには思えません。その意味で「脳科学」の「説明」はある意味なんの説明にもなっていないと感じるのです。
Sparrowhawk
2008/10/11 20:40
>Sparrowhawkさん

>重「力」から「自由」になる
現在の私たちの身体は「重力」と「調和」した結果として「かたち」も「はたらき」もなりたっています。この「調和」の恩恵は地上にいても逆のかたちで思い知らされます。脳卒中になると毎日の日々刻々が重力との再調整の日々になるようです。重「力」から「自由」になる道は「上」方向だけではないように感じています。

>>「蟻の話」
はい。その蟻(たち)と女の子とお母さんと…お話全体です。

「脳」は確かに頭蓋骨の中に「かたち」をもって存在します。ですが、「はたらき」については…まだまだわからないことが多すぎます。「脳」が「脳」を考えることの矛盾についてはご指摘のとおりだと思います。でもそれは「脳」のせいじゃなくて扱う「脳科学」もっと言うと「科学そのもの」の抱える矛盾であり、さらに言えば「私たちの存在そのもの」が抱える矛盾だと思います。
speranza
2008/10/12 09:13
人間の「精神」や「こころ」は、どこに存在するのか…「脳」はあまりにもたくさんの期待を背負わされすぎてきたし、そのことによる弊害は私たちの身にしみ過ぎてていて私たち自身を束縛しているということも指摘されています。
ただ、「脳」は可塑性の非常に高い「自由な」臓器であることも事実です。(私の日々の糧は脳の可塑性に依拠しています)私はそのことがとても不思議ですし、その「脳」と「皮膚」に類似性があるということもとても不思議です。なんのためにそれほどの性能を「明日の垢」となる表皮がもっているのか…またそれほどの性能を惜しげもなく垢となって捨て去るのか…身体が無意味なことをするとはとても思えません。きっとなにかの必然があるのだと思います。脳が皮膚だけではなくてさらに骨にまで覆われている唯一の臓器ということにも。
speranza
2008/10/12 09:16
「科学」もしくは「今の科学」は「脳」に限らず「身体」を細分化し物体化し客観視して「説明」できるようになったことがたくさんあります。それは「科学」が「科学」のありようとして突き進んできたからこその結果だと思います。そのことの恩恵もたくさんありますが…同時に弊害もたくさんあるのにそちらは過小視されているような気がします。

脳を含めた身体を身体として信頼する…今の私がとっている私の「身のたけ」に合った方法です。
speranza
2008/10/12 09:17
>speranza さん
>重「力」から「自由」になる道は「上」方向だけではないように感じています。

病は「力」からの「自由」の契機になり得ますよね!

>さらに言えば「私たちの存在そのもの」が抱える矛盾だと思います。

その矛盾を脳という器官に投影したにすぎない言説を「脳科学」が語りだすときがあるように感じています。いつもというわけではありませんが。「皮膚」に対してはそのような投影は起こりにくい。それゆえ自覚的にかかわれるように思います。
Sparowhawk
2008/10/12 20:36
>ただ、「脳」は可塑性の非常に高い「自由な」臓器であることも事実です。(私の日々の糧は脳の可塑性に依拠しています)

その「自由な」脳が身体とこころの全体性とつながっているであろうこと,その全体性の一部である「自由」について自覚的にかかわるのに,「脳科学」の提示する事実は役立ちますよね!

「脳科学」が sperannza さんのように,そこまででとどまっているならば十分了解できますしむしろ非常に大切なことと感じています。でも散見する「脳科学」にかかわる言説は身体とこころの全体性のもつ「自由」の根源が脳という器官にあるかのように語りだす。それが「好きになれない」理由なのです。

>身体が無意味なことをするとはとても思えません。

なにか意味があるのでしょうね!

>同時に弊害もたくさんあるのにそちらは過小視されているような気がします。

その通りと思います。

>脳を含めた身体を身体として信頼する

そうでなくてはですよね!さらにこころに対しても。「宗教」のない時代にはそれが精一杯のことみたいです…。
Sparrowhawk
2008/10/12 20:37

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