『 Buon Giorno!』 作業療法士Sより…

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zoom RSS 水を運ぶ

<<   作成日時 : 2009/07/21 20:22   >>

ガッツ(がんばれ!) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 4

昔は井戸からくみ上げた水を運ぶのがこどもの役目だった

…そうおっしゃる方は、とても多いです。

天秤棒の両端にバケツを下げて何回も行ったり来たりするけど
上手に歩かないと水がこぼれてそれだけたくさん行き来しないといけなくなっちゃうから
なるたけ水がこぼれないように考えながら歩いたもんだ
…とは、ある60代後半の方のお言葉。

水を運ぶ…それだけの動作でも
(本当はそれだけなんかじゃないと思うけど工程が少ないという意味で)
考えて試してその結果を確かめてまた考える…
動作を遂行しながら
同時にその過程を感じとり考えて修正しながら
PLAN-DO-SEEを当たり前におこなっていた
むしろ、ただ単に何も考えず何も感じず動作遂行していたら
水はこぼれ放題で何往復もしなくちゃいけなくなるから
自然と自分で工夫していたんだと思う

小さな頃から、動作遂行=遂行過程の確認を伴うということを
生活経験を通して、肌身に染みてわかっていたんだと思う。

ご飯を炊くにしたって
お湯を沸かすにしたって
ただ、ふーふー吹けばいいってもんじゃないから
工夫しながらしてたそうな…

だけど、今、私たちの生活経験というのは
蛇口をひねれば水が出る
もしも、水が出ない…となれば
それは蛇口のひねり方が悪かった…ということではあり得ない(苦笑)

ご飯を炊くにしてもスイッチ押せば炊きあがってるから
スイッチの押し方が悪くてご飯が炊けなかった…なんてあり得ない(苦笑)

スイッチ押したのに炊けなかった
蛇口をひねったのに水が出なかった…となれば
それは、炊飯器や蛇口やらが故障して炊けなかった…ということをまず考えると思います。

つまり
「自分」が「意図を伝えた」ら(スイッチを押す、蛇口をひねる)
「対象」はちゃんと「機能した」
あるいは
「自分」は「意図を伝えた」のに(スイッチを押す、蛇口をひねる)
「対象」がちゃんと「機能しなかった」
という生活経験があふれていると思います。

生活経験があふれている…ということは
水を出す、ご飯を炊く…という直接の表面の行為だけでなく
自分と環境との関わりという下位の共通体験として
自分が意図したことは、1工程の働きかけにおいてきちんと実現する
(遂行体験の過程を工夫するという必要なく)
ということを繰り返し繰り返し体験する…脳の中に回路として刻み込まれる
…ということになります。

だから
マニュアルとか介助方法の統一などという
表面的な決めごとが流行るんじゃないかな…
「こういう時にはこうする」
「こうすればああなる」
そういうハウツー的な知識とか技術が求められてしまう
それはまずは必要なことでもあるけれど
そこから先へ進めない、進もうとしない…のはどうなんだろう?
「本に書いてあるとおりにやったけどできない」
「言われたとおりにやったけどできない」
「役に立たないじゃん」

…。

昔の人は、そんなこと「言ってる」場合じゃないんだから
とにかく、「なんとか」「しようとした」んだと…そう思います。

 







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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
はじめまして!Buon Giornoさん
わたしは施設での職員教育の中で、一番感じることは
Buon Giornoさんの仰っているようなことです。
まず、考える習慣をつけさせることから始めなくてはならない時に、何だかがっかりしてしまうこともありますよ。
「考える習慣」は、幼い頃から、色々な遊びやそれこそ
「井戸の水運び」じゃないけど、試行錯誤して獲得してきたものがあるはずなのですが・・・
なかなか、その一歩先をいって!と願っても、分かってもらえないこともありますね〜
みつば
2009/07/21 23:31
みつばさん、はじめまして。
コメントありがとうございます。

かつては「なにかをする」ということと「考えながらする」「工夫しながらする」ということは表裏一体となっていた…「する」ことは同時に「考える」ことでもあり、身体と頭は文字通り一体だったんだと思います。

けれど、いつからか「なにかをする」ということと「考える」ということが切り離されても成り立つ生活に変わっていった…「考える=頭がすること」となり、しかも「なにかをする=意図する=身体の参加の限定化」まで起こってきてしまっている…。

「行為」の過程をどんどん省略化することで私たちの生活は本当に便利になったけれど、便利という恩恵の代償として私たちが失ってしまったものも大きく深い…そしてそのことはあまりに生活に密着しているから自覚化しにくくなってしまっている…これは何も若い人だけでなく私より年上の人にも同じことが同じように起こっています。
誰も言わないけど、これこそ生活習慣病なんじゃないか…と思ってしまいます。
speranza
2009/07/22 22:16
自分の工夫に応じて「水の運ばれ方」が変わるように、「行為」は本質的に対象へ作用し対象からのフィードバックを受けます。
私たちの行為が大きく深く変化したのだから、思考、身体、社会…そういったものが変わらないわけがない。
もうそういった現実があちこちで起こっているのに、私たちはそれらの現実が意味していることから目を背けて見ないふりをしたり「誰かのせい」にしてつかの間の安堵に浸ろうとしているのではないか…と感じています。

私たちができることは、そのことを自覚し、後戻りはできないのだから現状を自覚したうえでどう「する」か…ということを共通認識するところから始めるしかないと思います。

ですが、それがまた難しい…。
それでも、自分にできることをやるしかない…。
speranza
2009/07/22 22:17
こんばんは!speranzaさん
ごめんなさいねお名前がBuonGiornoさんかと思ってしまいました〜
何か難しいので、正確に理解できたかどうか分かりませんが、何となく仰ることは分かるような気がします
今の人たちの口癖というか・・・何か問題や課題が出てきた時に・・・よく、「どうしたらいいですか?」と
尋ねてくることが多いのです
はあ〜・・?「どうしたら?・・・」
自分で考えてみたの〜?自分ならどうするの〜?
自分なりの解答はあるの?・・・と、突き返したくなるようなことまで聞いてくる
そう言う現象に、びっくりさせられることが沢山あります。だから、思考能力が低下するんだ!と(笑)・・。
そんなわけで、私も、自分にできることをやるしかない・・・んですね
みつば
2009/07/22 22:37

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