『 Buon Giorno!』 作業療法士Sより…

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<<   作成日時 : 2010/01/24 18:58   >>

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残存機能、残存能力っていう言葉は
その前提として「部分の総和=全体」という考え方があるように思います。

脳卒中後遺症の片麻痺を例にすると
麻痺側の手は動かなくても、健側の手は動く…とか
麻痺側の足ではなくて健側の足腰を鍛えよう…とか
(ここでは敢えて、非麻痺側ではなくて健側という言葉を使ってみました)
身体をパーツごとに分けて
使えるパーツをもっと使っていけば、結果として全体のパフォーマンスとしての能力も上がる
…というような(ちょっと乱暴な言い方かもしれませんが)

身体を機械のようにとらえて
「部分の総和=全体」という発想が根底にあると思います。

でも
現実にはそうではありません。

随分前に記事にもしましたが
たいていの片麻痺の人は
麻痺側の足のつまさきを上げて着地するように歩くことはできても
非麻痺側の足のつまさきを上げて着地するように歩くことはできていません。

ウソみたいな話ですが、ホントの話です。

なぜ、良い方の足なのに、悪い方の足より歩き方が悪いのでしょう?

当然、良い方の足なので
座ってやれば、つまさきを上げ下げすることはできますし
立ってやれば、つまさきの上げ下げもできます。
でも、通常の歩くという総合的な動作の中では
良い方の足のつまさきを上げては歩けないのです。

このことは一体何を意味しているのでしょう?

身体は決して「部分の総和=全体」なんかではありません。

もしも、「部分の総和=全体」なのなら
歩くときに、良い方の足だってつまさきを上げて着地するように歩けるはずなのです。
敢えて、良いほうの足の能力を発揮しないようにしてでも
歩行時の安定性、安全性を優先する
それが身体の智慧が示している身体のはたらきなのではないかと考えています。

つまり
身体は常に「総体」としてはたらいているのです。

総体としてはたらく…ということは
このパーツは障害、このパーツは能力という区別
…「残存」の有無という固定した見方ではなくて
現状で使える「能力」を全体のバランスのもとで総合的に使う
ということを意味しているのではないでしょうか。

だからこそ
「できる」ということはスゴイことでもあるし
同時に
「できる」からといって過剰な努力は身体に負担をかけてしまうようにも思います。

言葉というのは
単に言葉ではなくて
その言葉が依拠する概念というものと対になって使われるものです。
そのあたりが専門家ですら、非常に曖昧というか
意識化すらされていないことが多いように感じています。

いろいろな方法論を支えるはずの非常にベーシックなものの共有認識が
専門家と呼ばれる人たちの間ですら為されていない
そしてそのことすら共有化できていない

そんなふうに感じています。















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