今日の朝日新聞に藤原新也氏の記事が掲載されていました。 この10年間のコミュニケーションのありかたについてのインタビュー記事です。 藤原氏はこどもも大人も含めて現在の状況について 「いい人を演じて波風の立たない気持ちのよい人間関係を作ることに個々人が腐心する。 そこには、相手の言葉や行為を正面から受け止め、たとえ軋轢が生じても自らの思い、考えを投げ返すという、本当の意味のコミュニケーションが希薄だ。」 と述べています。 そして 「(ケータイやネット環境による)相互監視システムがはりめぐらされて、同調圧力の風圧が強まる中、今後のコミュニケーションはどうなるか」 「ネット社会が臨海に達したときに、ゆり戻しが来るのではないか。 身体性の復活は方々で起きるのではないか」 とも述べています。 藤原氏が述べていることについて それぞれの場で現実に実感することも多いのではないでしょうか。 人は言葉ではなくて行為という、もう1つの言葉で 何を価値判断とするか…ということを繰り返し現出しています。 それは、言葉ではないからこそ いっそう、身についてしまいやすい、伝染してしまいやすいものなのではないでしょうか。 このような中で生きざるを得ない こどもたちの魂がどんなに萎縮してしまうことか お年寄りの魂がどんなに萎縮してしまうことか 打開策を考え出すはずの大人が思考停止状態に陥れば 自らも同調圧力の加害者でもあり同時に被害者にも成らざるを得ない このような歪みは 身体性の強い、こどもやお年寄りにポジのかたちであらわれ 身体性が抑圧される、大人ではネガのかたちであらわれるのではないでしょうか。 現代の「問題」として…。 でも、本当は、どちらの問題なのでしょうか? 同調社会というのは 表面的な問題の無さから、協調社会ととらえられがちかもしれませんが 実は、コミュニケーション不全社会と同義だと思います。 かつて この国は、目に見えるかたちでの抑圧体制をとっていました。 今、目に見えないかたちでの抑圧体制をもう1度つくり上げてしまったのは 何故なのでしょうか? 年頭に掲載されたこの記事を読み 思わず深く考えさせられました。 |
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